「私には何もない」
夜の公園のベンチに座って、俯きながら私はこぼした。街路灯がそばにあるので暗くはないが、気持ちはぐんと沈んでいる。
「何にもないことないと思うけどなあ」
ラフなシャツとチノパンに身を包んだ甲斐はだらしなく座りながらそう言った。
「何にもないよ。仕事だってみんなの足を引っ張ってるし、誰かに好かれるような性格でもない。甲斐みたいに絵を描けるわけじゃないし」
最後にさりげなくといった感じで付け足した一言が、きっと私の本音だ。
あなたの才能に、嫉妬している。私も、私だけの特別な何かが欲しい。
「優子はさ、きちんと毎朝起きて会社に行って仕事して、帰ってきたらご飯作って食べて寝るじゃない」
「……いや、普通のことじゃない」
「優子にとっての当たり前が、みんなの当たり前じゃないんだよ」
甲斐は立ち上がりながら、持っていた缶コーヒーをぐいと飲み干した。
「だから優子は、何もないことなんてないんだよ」
甲斐は右手を握ったり開いたりした。
「街中とか歩いているとさ、みんな人と笑い合ってたり、スーツをビシッときて歩いてたり。時々、そういうのがたまらなく輝いて見える」
私は視線を上げて甲斐を見てみる。甲斐は空を見上げていて、こちらからは表情は見えなかった。
「自分は社会とか人の輪に馴染むってことは諦めたからさ。たまに、それってどんな感じなのかなあって思う」
「……私とこうして話している感じ、だと思うよ」
私がそういうと、甲斐は一瞬止まった。そうして笑い声を上げた。
散々笑った後に、私の顔を見て、続ける。
「あ~あ、気づけば、当たり前になってたんだね。偉そうなこと言ってごめん。当たり前って、気づきづらいね」
「そうだね」
当たり前が、幸せだよね。
そう言おうと思ったけど、キザっぽすぎて恥ずかしいから、言うのはやめた。
空を見上げてみると、星が見えた。前に星を見たのはいつだったっけ、と思った。