音楽室の猫

「はじまるよ」

 ピアノの前に座りながら彼女は言った。黒い長いワンピースは、腰まで伸びた真っ直ぐな髪と同化しているように見える。
 一方の僕は、うとうとしながらピアノの音を聴いていたから、頭がまったく鈍ったままだった。彼女が言葉を発したということさえ上手く認識できずに、もごもごしていた。
 雑多な部屋に、窓からの光が差し込んでいて、ぽかぽかと暖かい。ここには僕を邪魔するものは何もなく、風さえも入らない。

「何がはじまるの」

 ようやく僕はそう呟いた。久しぶりに聞いた自分の声は酷く掠れていて、また思ってた以上に高く、僕の好みではなかった。
 僕はうんざりした気持ちになって、部屋の隅にさっと移動して、ガラクタの中に身を沈めた。写真、おもちゃ、誰かからの手紙、どうしてここにあるのかさえわからないブランケット。それらをあたまから被って体を隠すと、ようやく安心した。

 目だけをこっそり出して、彼女の方を見る。ここからは彼女の後ろ姿しか見えない。彼女の身体はなんて細いんだろうと思った。
 彼女はそっと鍵盤に手を添えると、ピアノを弾きだした。耳馴染みの良い旋律は僕の中をゆるりと流れて、安心感に浸してくれた。

「何ていう曲?」
「知らない。みんなが弾いてるのを、真似して弾いているだけ」

 彼女は僕に答えながらも、流暢に指を動かし続ける。彼女の脳みそと、指先の神経は、別々に作用しているのかもしれない。それが彼女の生き方なのかもしれない。

 彼女の普段通りの振る舞いに安心しきっていたのか、気づけば僕は彼女のすぐ横に立っていた。さらさらと揺れる髪と、左右ばらばらに動く指と、薄く微笑む口元を見ていると、彼女は全てがきちんと整えられていると思った。

「さあ、弾いてみて」

 彼女は突然立ち上がると、僕の腕を引っぱり、強引にピアノの椅子に座らせた。黒鍵と白鍵がすぐ目の前に迫る。
 僕は立ち上がろうとするが、彼女が僕の肩をぐっと押さえ込んでいるから叶わなかった。彼女は見た目以上に力が強かった。そのことを伝えると、「猫をかぶっているからね」と楽しそうにくすくす笑った。

「何を弾きたい?」

 ジャズかロック。僕が反射的に答えると、彼女は一瞬驚いた顔をしてみせたが、すぐに微笑んで「素敵ね」と言ってくれた。

 僕は鍵盤に手を添えた。だけれど、構えはこれで合っているのか、変じゃないか、どれから押すべきなのか。ぐるぐると考えてしまって、僕は固まったままだった。

「何でもいいのよ」
「あなたが弾くなら、なんでも、私は嬉しい」

 彼女の言葉は、僕の心のさざ波を一瞬で静かにしてくれた。

 僕は右手をすっと持ち上げて、人差し指で勢いよく、黒鍵をたたいた。

 かーん、という、鐘の音が鳴った気がした。

 その音の余韻が消えたあと、僕と彼女は顔を見合わせて大いに笑った。こんなに笑ったのはいつぶりだろうか。

「そういえば、何がはじまるの?」
「もう、はじまったわ」

 この後は床に寝転んで、二人で日向ぼっこをして、寝て過ごした。
 そんなのどかな、はじまりの一日だった。

(終)

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