「ねえ修ちゃん。あの電車に乗ったら、どこまで行けるかな」
走り去った特急電車の後ろ姿を見つめながら、冬子は言った。
「東京まで行くみたいだよ」
小学校に行く前に、河川敷の向こうを走って行く電車を眺めるのが二人の日課だった。冬子は土手の斜面に座りながら、修は土手の上で霜柱を踏みながら、何とは無しに時間をつぶしていた。学校が始まるまで、まだ1時間もあるのだ。
「こっそり乗り込んだら、東京に行けるかな」
「どうやって乗り込むのさ。この街の駅には特急は停まらないんだぜ。東京に行くには特急に乗らないと行けない。鈍行は途中で引き返してくるんだ」
「線路の周りの電柱か、駅の歩道橋から、飛び移る」
「あれ、歩道橋じゃなくて連絡通路っていうんだよ。でもそれで中に乗り込んだとしてもさ、知ってるか? 電車って切符をチェックされるんだぜ。俺、おばあちゃん家に行くときに電車乗るから知ってるんだ。車掌さんが前から順番に見て回って、切符に判子を押すんだ。切符を持ってないのがバレたら、すぐ降ろされちゃうんだよ」
「それなら私、ずっと屋根にしがみついてる」
冬子は自分の身体を抱きしめるように、体育すわりでぎゅっと小さくなって、前後に揺れていた。薄汚れたジャンパーはサイズが合っておらず、袖が全然足りていなかった。下のジャージも穴がいくつか空いていた。
「寒くないのかよ」
別に、と冬子はつっけんどんに答えたけれど、変わらず前後に揺れていた。
「明日から、冬休みだな」
「……修ちゃん、明日は暇?」
「明日からおばあちゃん家に行くんだ。おしるこ食べて、お年玉もらって、初詣行って、いとことゲームするんだ」
「いつ帰ってくるの?」
「一月二日」
ふうん、と言いながら冬子は、立ち上がって、お尻の雪を手で払った。両手を顔の前でぎゅっと握って、一生懸命息を吹きかけて温めようとする。
「三日からは何するの」冬子が尋ねる。
修は、両親や兄弟と買い物に行ったり、クラスメイトと公園で遊ぶ約束をしていて、冬休み中予定がいっぱいであることを嬉々として告げた。
冬子は聞いているのかいないのか、修に背を向けて霜柱をザクザクと踏んでいた。だんだん二人の距離が離れていく。
「冬子はさ、何するの? ……一月六日とか」
最後の方はごもごもとはっきりしない様子で修が尋ねた。
冬子は、雪を素手でかき集めぎゅっと握って雪玉を作ろうとしたが、サラサラと手の隙間から落ちていった。
「別に。いつものやすみと同じ」
冬子は真っ赤になった手にまた息を吹きかけ、こすり合せ、ぎゅっと強く握る。
「手袋ないのかよ」
「……軍手しかない」
「軍手でも、ないよりマシじゃね」
冬子はそれには答えず、じっと前を見つめていた。修がその視線を追うと、各駅停車の電車が、がたんごとんと規則正しい音を立てて走っていった。
「あれは東京に行くかな」
「逆方向だから、きっと北海道に行くんだよ」
その後二人は特に言葉を交わさずに、寒さに耐えながら時間を過ごした。同級生たちが登校し始める少し前に、いつものように修は「じゃあな」と言って、学校へ向かい歩き始めた。一度修がそっと振り返ってみると、冬子は一人で足踏みをして、一生懸命身体を温めようとしていた。
一月六日。修はいつも登校するのと同じ時間に家を出て、河川敷へ向かった。そわそわする気持ちはそのまま歩調に現れ、ほとんど駆け足になっていた。
冬子は、前回会った時と同じ格好で土手の斜面に座って、ぼうっと線路を眺めていた。いつもと違うのは、ランドセルを背負っていないことぐらいだった。
修は冬子の姿を見つけるとほっと胸をなでおろした。上がった呼吸を整えてから、「冬子」と声をかけた。冬子はびくりと肩を上げ、修を見て目をまん丸くした。
「明けおめ」
「明けましておめでとう……どうしたの? 学校まだ始まってないけど。どこか行くの?」
冬子はそう聞きながらも、思いがけず会えたのが嬉しかったのか、立ち上がって修に駆け寄った。
「二日にお母さんと、デパートの初売りに行ってさ。お年玉で買ったんだ。……誕生日プレゼント」
修は早口でそういうと、デパートのロゴが入った小さめの紙袋を冬子に突き出した。冬子は、紙袋と修の顔と、視線を交互に移す。
「私の、誕生日、覚えててくれたの?」
「一学期の自己紹介の時、みんな誕生日言ったじゃん。冬休み中なんだなぁって、ただ、それで覚えてただけだよ」
冬子は紙袋を受け取り、そわそわしながら隙間からそっと中身を覗いた。
「開けていい?」
開ければいいじゃん、と修が答える。冬子は紙袋の中に手を突っ込み、白地に小さなクマが散りばめられている包装紙の包みを取り出した。冷たくかじかんだ手で慎重にシールを剥がし、中身を取り出す。
赤い、ミトン型の手袋が出てきた。
「どんなのがいいかわかんなかったけど、女の子だったら赤がいいんじゃないって、お母さんもお姉ちゃんも言ってたし、五本指のよりそっちの方があったかいし、ボンボンついてるのと迷ったんだけど、そっちは100円高くて……」
修はペラペラと矢つぎ早に話し出した。冬子は手袋を両手で包むように持ち、じっとそれを見つめていた。
「ありがとう」
笑顔を浮かべながら、冬子はようやくそう言った。相手が喜んでいることを確認できて安心し、修はようやく喋るのをやめた。
「ねえ修ちゃん。今日は線路脇まで行って特急電車見ようよ」
そう言い出すが早いか、冬子は土手を駆け下りて、線路に向かって走っていた。修も慌てて冬子について行く。
二人分の荒い白い息が、線路脇に並ぶ。冬子は柵にしがみつき、首を右にひねり、線路の端に特急電車が無いか探した。
「柵に近づいちゃダメって、先生言ってただろ」
修は冬子の上着をちょんとつまみ、少し後ろに下がらせる。
「あとどれくらいで通るかな」弾む声で冬子が言う。
「あと三分くらいじゃない」
「……家に帰ってからにしようと思ってたんだけど、手袋してみていい?」
「……いいんじゃない」
冬子は左手の指先から慎重に、そっと手袋をはめてみた。修の胸は、ドキドキと高鳴り始めた。両手に手袋をはめると、冬子は顔の前に手をかざし、くるくると手を回し、手袋を隅々まで観察した。
「修ちゃん、似合ってるかな、変じゃないかな」
「大丈夫だと思う」
「すごくあったかい」
冬子が軽く拍手すると、ぱふぱふという音がした。
「プレゼントって、こんなに、いっぱい、嬉しいんだね」
「別に、プレゼントなら今日お父さんからももらえるんだろ。誕生日なんだから」
「……あ、電車きた」
その声に修は視線を右に向ける。汽笛が遠くで聞こえる。小さく見えていた電車が、ぐんぐんと近づいてきて、あっという間に二人の目の前を通り過ぎて行った。ファンという音とともに起きた風圧に、二人は思わず目を細めた。電車から一瞬遅れて、線路脇の雪がさあっと舞い上がる。二人が目を開けると電車はすでに遠のいていた。ガタンガタンという音がどんどん小さくなっていく。
「すごかったね」
冬子の弾む声に、修は振り向いた。
冬子は両手で頬を包みながら、ニコニコと笑っていた。先ほど舞い上がった雪が、キラキラと光りながら、冬子の笑顔の上にふわりとかぶさっていく。
修はその綺麗さに胸を掴まれて、何も言えず、ずっと見つめていた。
やがて雪は、音もなく、落ちて消えていった。
修はようやくぼそりと、「うん」と返すだけで精一杯だった。
(終)